こんにちは。なまけてブログにようこそ。
管理人は、飲食業や流通、食品加工などの知識には疎いです。そのような職業に関係していないことが大きな理由です。
食べ物は簡単になくなってしまう
しかし、都市部に住んでいると、食料はいつでも手に入るような、錯覚に捉えられていることに、嫌でも気が付くことがあります。
台風の前日、近所のスーパーのカップラーメンの棚が半分くらい空になっているのに驚きました。また、パンのコーナーも軒並みなくなっていました。
東日本大震災の時の、食料不足を思い出させるような光景で、現実に引き戻されたような気持ちになりました。
食料が消費者まで届くためには
そもそも、一食の食事を得るためには、どれほどの人間やシステムが稼働しているのか、考えるだけでも気が遠くなりますよね。
パンひとつとっても、小麦を収穫するためには土地や生産計画、仲買人、農家の設備、流通システム、穀物メジャーの管理コスト、先物市場、マーケティング、製粉工場設備、卸業、といったすべてが機能して、初めて製造業者に小麦粉が入荷されて、それがパンに加工され店頭で消費者に提供されています。
なんという手間!それがシステマチックに動いているからこそ、パンが食べられるわけで、それを「消費期限が切れたから捨てよう」みたいな動きで本当に正しいのか、疑問になってしまうわけです。
もちろん、今の義務教育では食育教育が取り入れられているでしょうから、管理人のようにいまさら驚くにはあたらないかもしれません。
ただ、生きるために食べること。膨大なカロリーが必要になって初めて活動できるということを知っていると、無駄な生き方をすることは罪悪感が芽生えてしまう気がします。
生きるために、食料を手に入れるために
『文人暴食』(嵐山光三郎 新潮社)には、横光利一の話が出てきます。
新感覚派としてすでに作家として認められていた横光が、戦後の食糧難のときに、一家が食べていくためにヤミ米を求める話が載っています。
朝、空の弁当箱を持って外出して、夕方までにその弁当箱一杯のコメを手に入れる。そのことがいかに困難か。平和な時期なら原稿料や印税で苦も無く生活できるような人が、そのようなことをしなければ生きていけないということが、ひどく記憶に残りました。
被災して、援助もろくにないような状態になったら、自分にはそのような食を手に入れる能力があるのか。とても自信がありませんが、明日をも知れぬ、この今こそ考えておく必要があるのだと思います。
追記
いまコンビニで、賞味期限切れの食べ物を安く買えるシステムを一部実験導入しているそうです。このような動きが広がるといいですね。
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