賢さの意味を考える

メンタル

知恵のある人、分別のある生き方をしている人のことを「賢人」と呼びます。

一途に何かの道を追求した人のことは、特に賢人とは呼ばず、名人とか求道者というと思います。しかし、その生き方が他人の尊敬を受けるに値するならば、賢人、賢者と呼ぶのかもしれません。

どちらかというと、何事にもある程度深く精通していて、なんでも知っている知恵者であってかつ、謙虚である。そんな人のことを賢人と言い、スペシャリストよりもゼネラリストのことのイメージがありますね。

スペシャリストはわかりやすい

スペシャリストである名人も、もちろん他人の尊敬に値するでしょう。他のことはさておき、その道であれば並ぶものがいない芸や技術、学識の持ち主であるのですから、当然です。しかし、道は究めようとすればするほど比較されます。他人や世間と比較されることもあれば、過去の自分の業績と比較して、それを乗り越えようとして努力する人もいます。

画家のデ・キリコは、若いうちに自分の画風を確立してしまった天才だったので、自作を模倣しながらも別の表現方法を必死になって探し続けた努力家でした。

また、ピカソも何度も自分の殻を打ち破ったので、20世紀を代表する画家になれたのでしょう。

彼らは、名人の道の王道を歩いた人たちだったと言えます。

賢人の道はいろいろな道がある

では、賢人はどうでしょうか。賢人と呼ばれる人は、案外周りに沢山いるような気がします。

賢人の条件が、賢い生活をしている人、また世間にあまり知られていない、不世出の大家であることなど、名人にくらべればハードルが低いのです。一般人であってもこの人は賢人かなと、周りが思えば賢人なのでしょう。

しかしそれでは世の中賢人だらけになって、もっと知恵や教えが溢れていてもいいはずなのに、そうはなっていません。

その理由としては、以下の理由が考えられます。

  • 賢人の質が低いこと
  • 賢人の言うことに耳を貸そうとする人が少ないこと
  • 賢人がそもそも人に何かを教えたがらない性質であること

その人を探し求め、弟子になって教えを乞いたいと思える賢人は、決して「私は賢人です」という看板を出してないので、探すこと自体が難しいはずです。むしろ隠者というのが正しいのかもしれません。

賢さは自分で身に着けるが王道

そもそも、賢さというのは人から学ばないといけないことなのでしょうか。

おそらく、そんなことはないでしょう。学ぶ機会と意欲さえあれば、どんなささいな出来事からでも「学び」は生まれるはずです。最初は真似事であって十分です。それを繰り返してみて、吟味するうちに自分にあうか、そうでないかが分かるはずです。

徒然草にいう、「偽りても賢を学ばんを賢というべし」とはまさにその一歩目の心構えのはずです。

教えられたこと、学んだことに満ち足りなさを覚えるその瞬間こそ、賢さへの真の道筋が見える時かもしれません。その瞬間がくるまで努力し、自分を信じて耐えることができることが、賢人の道に求められている才能でしょう。

まとめとしては、賢さとは、身に着けられる知恵であり、自分のためだけでなく世間のために知恵を使うべきこと。そのためには、真似でもいいので一歩目を踏む出して努力を続けること、となります。


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