キリングフィールドの成り立ちを考える

リラックス

Youtubeで、ポルポトが支配していたカンボジアでどのように虐殺がおこったか、いわゆるキリングフィールドがどうして成立したのかについてのドキュメントを見ていて、考えたことを書いていきます。

反共政権の成立

1970年のカンボジアは、シアヌークを中心とする政権が成立していました。容共的なシアヌークの政治方針について、アメリカは強い懸念を持っていました。北ベトナムに次いで、カンボジアまで共産国家になるのではないか、ということです。

シアヌークが中国訪問で留守にしているあいだに、アメリカの後押しでロンノルがクーデターを起こし、政権を奪取します。親米政権が成立したのです。

カンボジア内戦

ロンノル政権を打倒するため、北ベトナムはソビエトのバックアップをうけてカンボジア東部へ侵攻します。またたくまに、プノンペン近郊まで攻め入ります。ロンノル政権への支援が弱かったこと、支持が薄かったことが分かります。

また、シアヌークは打開策として政治上の敵であったクメールルージュと手を組み、カンボジアの政権を取り戻そうとします。カンボジア南部に解放軍を展開していきます。

カンボジアは政府軍と共産勢力の内戦状態になり、人口密集地域まで戦域が拡大することになります。戦場人なった地域の人々が難民になり、都市部に流入することになります。その数は100万人以上と言われています。

クメールルージュの支配

内戦は、反共勢力に不利になり、ロンノルはアメリカに亡命し、共産勢力の勝利となります。シアヌークはカンボジアの政権の座に返り咲けず、ポルポトが率いるクメールルージュがカンボジアを実質支配することになります。ここから、カンボジアの悲劇が始まっていくことになるのです。

管理人の前からの疑問として、まぜ200万人の民衆がむざむざとクメールルージュの支配に従ったのかということがありました。これだけの人数が居れば、第二次世界大戦のドイツ支配下のパリのように、レジスタンスなどが活躍できる下地があるのではないかと思ったのです。

今回のドキュメンタリーを見ていると、そのような状況ではなかったことが分かります。人口密集地が戦場になったため、大量の難民が都市部に流入していたため、深刻な食糧危機が起こっていたことが分かります。抵抗活動をすることが難しかったのです。

また、軍事クーデターでうちたてたロンノル政権には、求心力が弱く抵抗組織をつくることができなかったように思えます。地下組織的な連携がなければ、レジスタンスに武器が行きわたらずに抵抗することができないのです。

さらにいうと、クメールルージュの活動が早かったことです。市民を殺さない代わりに、強制収容キャンプに移動させることを優先させたのでしょう。殺されるよりは、従うことを選ばせる、狡猾なやりかただったと思います。

そしてキリングフィールドが成立した

都市部を空っぽにしてほとんどの国民を強制収容キャンプに移動させたあと、ポルポトは原始共産主義という理想に突き進み、国民の1/3を虐殺することになります。

ポイントは、都市部の大衆に抵抗力がなかったことなのではないでしょうか。これは、今の日本にしても同じだと思います。誰かが連れ去られても声をあげず、自分の番になってやっと事態を理解するということが現実に起こり得るのです。

もし、同じようなことが日本で起こっても、SNSで拡散を呼び掛けたとしても、実際に動く人たちはどのくらいいるのか。まあほとんどいないでしょう。政治に興味を持つ国々の若者ならいざ知らず、日本のようにぬるま湯で生きていける国では、保守・静観・無関心で終わってしまうのではないかと、勝手に推測しています。


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