共感できるからといって寛容できるとは限らない

リラックス

現代の日本人、特にシニア層に足りないものは、「寛容性」だと思っています。小さなことにイライラして、つい大声で恫喝したり、クレーマーとして粘着してお互いの貴重な時間を潰しあうのは寛容性が足りないからなのではないでしょうか。

自分より立場が弱い(と思っている)相手に対して強く出て、謝罪するまで容赦しないのは、パワハラに近い行為です。恫喝ともなれば立派に犯罪性が成立するので、何一つメリットがない行為なのですが、それでもこういうトラブルはなくなりませんね。大人げないことを平気でやる人々が増えているようにも思えます。

寛容性が発揮されるのは共感がうまれたとき

寛容性が発揮されるときというのは、自分の心の中に変化が起こったときであると思います。例えば、電車の中で具合の悪い人を見たとき、その人に声をかけて介抱しようとするのは、その人に対して共感の心が生まれたからです。逆に、自分の具合が悪い時でも、同じように具合の悪い人を見れば、共感の心がおこって、おなじような行動に移るかもしれません。

前者は、体力や気力に余裕があるときであり、後者は自分にも余裕がないときです。このような満ちている時や不足しているときは比較的心の動きが活発になると思います。しかし、この中間の場合、フラットな心の場合には心にとっかかりが無く、共感するための心の動きが生じにくい状況が生まれるように思われます。要するに、無関心な状態が多いのです。

寛容性はいつ身に着くのか

寛容性は、共感がきっかけになって発揮される場合が多いと思われますが、その寛容性については、天性のものではありません。ほとんどの場合、後天性のものであり、寛容になろうと思えば学べることなのです

普通に生活してきた人間であれば、子供社会に入って物事をうまくやろうと工夫するうちに学べることでしょう。こちらが寛容であれば、相手も寛容に対応してくれて、Win-Winの関係になることが理解できるはずです。

たとえ、そのような成長の機会がなく、自己中心的な人間として大人になってしまっても、なにかのきっかけがあれば寛容であることを学ぶことはできます。いずれにしても、寛容であれと他人に強制されることでは身に着くことはなく、あくまで自分の体験、気づきをきっかけとしないと難しいことと思われます。

共感性から寛容性は生まれるか

寛容であることは大きなメリットがあることです。人間関係をうまく繋いでいきたいならば身に着けておきたいスキルです。

「Z世代」という、スマホネイティブな世代は、共感に非常に敏感なのだと思います。自己承認性を強く求め、他人のツイートにいいねをつけて、自分もいいねをもらいたいのは共感に飢えているからなのかと推測しています。

しかし、寛容性はどうでしょうか。共感性が強くても、寛容になれるかは別の話なのではないでしょうか。もし、この共感が強いZ世代が寛容性も身に着けているのであれば、日本も捨てたものではないのですが、実際は、「自分ごと」以外にはほぼ無関心であるという心しか持っていないのかなと感じています。フラットな心のままなのです。寛容性はやはり自ら学ぶ姿勢を持たないと身につかないように思います。


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