シーザーを理解するのにシーザーである必要はない

メンタル

理解なんてものは概ね願望に基づくものだ

引用元;『イノセンス』

『イノセンス』というアニメーション映画は2004年に押井守監督によって制作されたサイバーパンク映画です。管理人はこの映画が好きで、いまでも良く見返しています。

冒頭の引用は、公安9課の荒巻課長が言った言葉です。理解という概念についてのなかなか深い言葉ではないでしょうか。

人間は真に理解できない

人間は自身の能力のみでは、「理解」することはできないのです。物事を完璧に捉えることは、当事者であっても難しいのに、書物や伝聞などでバイアスがかかった情報だけでは、とてもその事象を理解することは出来ません。

そうすると、人間の脳はそのソースから得られた情報を、自身の過去経験や記憶と照らし合わせ、似ている事象と合致させ処理しようとします。個人の願望がそこに混じったとしてもしかたがありません。むしろ、「こうである」は「こうであって欲しい」という願望に基づいて処理されることになるでしょう。であれば、冒頭の言葉通り、理解は概ね願望に基づいていると言えます。

シャーロック・ホームズやオーギュスト・デュパンのような鋭い推理力、洞察力を持った一部の人間だけが、情報の断片から事象を理解をできるのでしょう。まあ、どちらも物語の登場人物でしかないのですが。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、人間の理解ということについてはイデア論で説明しようと試みています。真実の姿はイデアの世界にしかなく、人間たちが見ているのはその投射された影であるということです。この説に納得できるかどうかはともかく、事象を本当に理解するということが不可能であるということは、古代から人間には分かっているということの証明になります。

範疇を超えたものは捉えることができない

また、人間の能力の範疇を超えたものはそもそも理解できないのです。

対象物が小さすぎてわからないというのは、単に視力の限界を超えているために見える範囲に入っていないことになります。虫や鳥の羽ばたきの動きが速すぎて目に捉えることができないことも、同様です。

大きすぎてわからないというのも、理解の範疇を超えているために分からないのです。ユカタン半島にある巨大クレーターは、海底にあることもあって長い間、人間の目には6500万年前に隕石の落ちた跡のクレーターであるというとらえ方をすることはできませんでした。グーグルアースなどで、ナスカの地上絵が新しく発見されるのも、人間の視界の範囲に捉えられるように縮小できたからであると言えます。

ポーの『盗まれた手紙』では、あまりにも分かりやすすぎるために、手紙を発見することができないというパラドクスじみたストーリーが語られています。分かりやすいことであっても、理解の範囲に入ってこなければ理解することができないのです。

その点では、全く別の事象を結びつけて考えることも同様であると思います。

バージェス動物群の中で有名なアノマロカリスの化石は、当初、口の部分の化石と触手となる部分の化石は全く別の生物であると考えらていました。しかし、この化石を眺め考え続けた学者が、実は一つの生物なのではないかと考え、現在良く知られるあの奇妙な生物の姿を復元してみせたのです。同じことはオパビニアにも言えます。5つの目を持ち、ホースのような口の先にクチバシを付けたようなこの生物は、学会で復元図を発表したときに、あまりの奇抜さに爆笑を誘ったといいます。

いろいろなものを結びつけて結論に至ることは、人間の理解の範疇を拡大する訓練を受けていない人には難しいことであると言えるでしょう。

このように、範疇に収まらない事象については、人間の理解力は無力です。イデアに頼りたくなるのも、分かる気がします。

理解についての選択肢

理解というものが本質的にはできないということが分かれば、いくつかの選択ができます。

シーザーを理解するのにシーザーである必要はない

引用元;『イノセンス』

この言葉は、社会学者マックス・ウェーバーの著作からの引用です。「理念型」と呼ばれる方法論について語った言葉であると思われます。

理解というものが完全にできないのであれば、完璧には理解しようとしないという選択があるのです。大枠を把握できれば理解したということにしよう、ということでしょう。現実の解としてはそのように落ち着くでしょう。

また、無理に理解しようとしない。そのままを受け入れるという選択支もあっていいと思います。むしろ、情報過多の世界においては、この「無理解」の能力を脳が発展させているとも考えられます。

百聞は一見にしかず、ということわざもありますが、理解できないことははじめから理解できないものとして受け入れるほうが、楽でもあります。極端な例ですが、100人の臨終に立ち会った人、100体の遺体を見た人が「死」を理解できるかといえば、それはできないでしょう。死が身近にあること慣れるだけです。「死」は自分が死んでみて初めて理解できます。

ならば、とりあえず受け入れるという姿勢があってもいいのではないか、と思います。


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