『映像の世紀』、その5

リラックス

NHKスペシャル『映像の世紀』を紹介していきます。今回は、5回目の「世界は地獄を見た ~無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆~」。1939年から1945年までの第二次世界大戦を取り上げています。人が人を殺すことを命令されて、実行されたという戦争の悲惨さ。民間人を対象にした大量虐殺。こういったことを中心に制作されています。

ナチス・ドイツの快進撃

1939年、独ソ不可侵条約が締結されるとドイツとソビエトはそれぞれポーランドに進行します。ワルシャワは最後まで抵抗しましたが、騎兵と砲兵しか持たないような軍隊はあっというまに撃破され、わずか1か月ほどで占領されました。ドイツが航空機と機械化部隊を組み合わせた電撃戦を成功させたのです。電撃戦は、戦争の思想からしてちがう、ゲームチェンジャーとでもいうべき戦法でした。しかし、序盤であまりに見事に成功してしまったために、ヒトラーは爆撃機重視の戦法に固執してしまいます。戦争の末期では制空権を奪われ、空軍と陸軍の連携ができなくなります。

ポーランドの次は、オランダ、そしてベルギーと占領していきます。空挺部隊により交通の要衝を抑え、戦車がなだれ込むという戦法は見事に機能したのです。

そして、目標はフランスへと向かいます。第一次世界大戦で西部戦線で塹壕戦を戦った経験から、フランスは「マジノ線」という陣地を構築していました。750kmにおよぶ近代的な地下要塞で、正面から突破しようとするのはまず無理なシロモノでした。この要塞があったおかげで、フランスは油断していたのでしょうか。従来、歩兵の進軍が不可能とされていた、マジノ線の盲点であるアルデンヌの森を、ドイツ機械化部隊は突破します。マジノ要塞の後ろ側から攻撃を加え、パニックに陥っているフランス軍を難なく退けます。要塞は、正面からは難攻不落ですが、後ろに回られると砲火網にとらえられず、また補給線などの弱点があらわになるので弱いのです。この、要塞を後ろから攻めるという戦法は、後に日本軍がシンガポール要塞を攻略する際にも使われます。

フランス・イギリス軍はパニックになり、ダンケルクという港町まで後退します。30万人の兵士の命が風前の灯になります。しかし、ここで「ダンケルクの奇跡」と呼ばれる救出作戦が成功しました。イギリス戦時内閣首相のチャーチルの呼びかけに民間の船を総ざらいして、ブリテン島まで運びました。

このダンケルクの奇跡は、イギリスの手柄ではなく、ヒトラーが側近の空軍相ゲーリングの口車にまんまと乗せられてしまったため、軍を手前で停止させたことにありました。いずれにしても、フランスはひと月ほどで降伏し、パリにナチスの旗が掲げられることになったのです。

西ヨーロッパのほとんどがナチス・ドイツに占領されました。アメリカは孤立主義として不参戦で、傍観の構えをとります。どちらかというと、反ユダヤ主義者であった自動車王フォードがナチスに資金提供するなど、ドイツ寄りの姿勢が目立ちます。

ソビエトは、フィンランドに侵攻しようとし、「冬戦争」が行われます。しかしフィンランド国防軍は粘り強く抵抗し、ソビエトの侵攻を退けました。

日本は、1940年9月に、ドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を締結し、枢軸国側に加わることになりました。この同盟は半ば強引に軍部主導で決められたもので、広田弘毅などの外務省筋は締結に反対していたといいます。

戦争の転換期

フランスを占領したヒトラーは、イギリスに攻撃を加えます。バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる、一連の空軍どうしの熾烈な戦いが行われます。ドイツから大量の爆撃機がやってきてロンドンに無差別爆撃を繰り返しました。対するイギリスは、レーダーを使い、待ち伏せ戦法でドイツの爆撃機を迎撃します。この戦いで、ドイツは1700機の航空機を失い、ついにイギリス本土攻撃をあきらめることになりました。

ヒトラーは『我が闘争』に記されたステップ通り、ソビエトを攻撃することにします。共産主義であるソビエトをゲルマン民族の植民地とするために、殲滅戦争を仕掛けるのです。1941年6月に、独ソ不可侵条約を破り、バルバロッサ作成と呼ばれるソビエトへの侵攻が始まります。この知らせを聞いたとき、スターリンは動揺してしまい、しばらくは声も出なかったというほどでした。ソビエト軍は大敗を喫し、20万の兵士が捕虜になりました。

ドイツ軍がモスクワ目前まで迫ったとき、寒波の訪れによって進軍を止めざる得なくなります。補給ができなくなり、戦闘継続能力を失ったドイツ軍は、12月のソビエト軍の大攻勢によって敗北し、退却しました。

同じころ、1941年12月8日、日本の機動部隊が真珠湾を攻撃します。太平洋戦争の始まりです。日本は「大東亜共栄圏」の名のもと、東南アジアへの侵攻を開始します。マレー半島、シンガポール、サイパン、フィリピン、ニューギニアなどへ進出します。いままで中立を保っていたアメリカは即座に連合国側につきます。三国同盟により、ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告し、戦争は一気に拡大しました。

真珠湾攻撃で太平洋艦隊に大打撃を受けたアメリカですが、それでも航空母艦を中心とした機動部隊で日本と死闘を繰り返します。珊瑚海海戦、そしてミッドウェー海戦によって、日本は主力の航空母艦4隻を失い機動部隊は壊滅します。このミッドウェー海戦こそが、太平洋戦争の転換期だったと言えるでしょう。

ドイツにおいては、1942年8月にブラウ作戦を起動。再びソビエトに侵攻し、南ロシアの大部分を占領します。ドイツ軍の目標となったのは工業都市として知られたスターリングラードの占領です。スターリングラードでは、大規模な市街戦が行われ、ソビエト軍はこの街を死守すべく軍を送り込みます。政治将校として指揮を執ったのは、後の第一書記になるフルシチョフです。スターリングラード攻防戦は、ソビエト軍の包囲により補給を絶たれ、ドイツ軍が大敗北しました。10万人が捕虜となりシベリアなどに送られました。生きてドイツに帰ってきたのは、たったの6000人でした。東部戦線のこの敗北は、ドイツのひとつの転換期になります。

連合軍側の勝利。悲惨な状況が明らかになる。

アメリカが連合軍として参戦し、まずドイツ同盟国のイタリアをターゲットに作戦に出ます。シシリー島を占領し、イタリア半島に攻め入り、1943年8月にイタリアは降伏します。ムソリーニはミラノに逃れ再起を図りますが、後に連合軍側に捕獲されます。

そして、1944年6月、連合軍側のノルマンディー上陸作戦の成功によってヨーロッパの戦争の行方はほぼ確定しました。同年8月、パリ解放。西部戦線と東部戦線で決定的な敗北を喫したドイツは風前の灯となりました。それでも1945年まで持ちこたえます。ドイツの有能な陸軍将兵の力によるところが大きかったでしょう。4月30日にドイツは無条件降伏し、ヒトラーは妻のエヴァと地下壕で自殺しました。

ドイツが占領していた地域には、ユダヤ人を収監するための強制収容所が多くつくられていました。フランス、ポーランド、オランダ、ベルギーなどには中間収容所というものが置かれ、ユダヤ人はいったんそこに収監されます。その後、家畜用貨車に乗せられ鉄道なでアウシュビッツなどの大型の最終処理場へと送り込まれる仕組みになっていました。ホロコーストで殺害されたユダヤ人の正確な数は分からないのですが、600万とも1200万人とも言われています。

このアウシュビッツ解放のシーンはとても強烈であり、この映像を見るだけでも価値があります。惨状を見た兵士の証言の「この恐ろしい出来事は、自分にも、他の誰の身にも起こり得るのだ」という言葉が印象的です。

1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下されます。この原爆は「マンハッタン計画」という名のもとにアメリカで開発されました。それ以前には、日本を降伏させるには陸軍の上陸作戦とソビエトの参戦が必要と考えられていましたが、原爆の開発成功によって、空軍力だけで日本を無条件降伏へと追い込むことができるようになっていました。1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ無条件降伏し、第二次世界大戦は終了しました。

この後日本は共産主義陣営の拡大を恐れる、資本主義陣営の前線基地としての役割を果たします。ドイツは東西に分断されました。イタリアは、降伏後に連合国側について参戦していたために、冷戦に影響されることなく自治国家のまま資本主義陣営につきました。

戦中に行われたヤルタ会談によって、戦争の舞台となった国々は資本主義陣営と共産主義陣営に分かれ、冷戦に突入していくことになります。


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