『ウェストミンスター寺院』から無常を考える

メンタル

2020年4月は、コロナ禍で自宅待機が求められています。外出しても、大きな商業施設や、カフェ、図書館も閉館しています。テレビも同じニュースを繰り返すばかりで、不安を煽る拷問器具のようです。なにか刺激が欲しいと思ったらネットが頼りです。興味ありそうなものを自分で探すしかありません。

そんなこんなで青空文庫を漁っていたら、ワシントン・アーヴィングの『ウェストミンスター寺院』という短編が追加されていたので読んでみました。頼りになります、青空文庫。

ウェストミンスター寺院について

この短編は、著者がロンドンのウェストミンスター寺院を訪れた際の紀行文です。ワシントン・アーヴィングは、19世紀前半に活躍した、アメリカの作家、法律家で、イギリスにも長期滞在していました。なにか思索をしようと、この荘厳な墓所というべき寺院に立ち寄った際の文章でしょう。

ウェストミンスター寺院には、多くの著名人の墓所、記念碑、礼拝堂などがあるといいます。「詩人のコーナー」にはスペンサーやチョーサーなどの著名な詩人が埋葬されています。また、13世紀から15世紀のイギリスの国王達もこの寺院に眠っています。

アーヴィングの文章の中では、静寂、死、過去の栄光と死後の虚栄についての記述が繰り返されており、冷たい石造りの聖堂の雰囲気が伝わってきます。そしてこの文章は無常感に貫かれているのです。貴族がいかに立派な墓に葬られていても、死んだら他の平民と一緒という、虚しさがしみじみと語られています。

西洋的無常と東洋的無常

西洋的な無常とは、メメント・モリ、「いつも死を思え」という言葉に代表されるでしょう。中世キリスト教の教えに沿って、盲目的に領主や教会の権威に従うことこそが平民の美徳であり、「最後の審判」で天国へ行くための道でもありました。その宗教的な視点では、明日死ぬかもしれない身であれば、教会の教えに背かず、今日を誠実に生きるという道徳観念があったものと思います。

一方、東洋的な無常といえば、仏陀の教えが代表的です。人生は苦である。輪廻の無明から脱するためには、涅槃の道に入らねばならない、と説きます。世俗の生活を捨て、叢林で静かに暮らすことこそ原始仏教の目指すところです。

仏教的な無常と、日本の無常の思想とは、少し違いがあるように見えます。日本では平安末期の武士の台頭のあたりから無常の思想が形成されていくように思われます。武士は戦場に出れば明日をも知れぬ命なので、無常観というものを強く持っていたのでしょう。『平家物語』や、鴨長明の『方丈記』なども、そのような基調で書かれています。

鎌倉時代、禅宗が普及したのも、日本人の無常観に与えた影響は大きかったのではないでしょうか。常に死を覚悟し、平然とそれを受け入れるために己の精神を鍛えるという、一見、トンデモ的な思想に思えますが、いまよりずっと苛酷な人生を送らなければならなかった人々には、己の覚悟のみが心の支えになったのです。

墓所というパビリオン

墓の在り方というのは、各国、各地域によって様々です。日本の本島では骨壺をカロウト式の墓に収めるのが一般的な埋葬の形式ですが、沖縄では、家の形をしたお墓をよく見かけます。そのお墓に一族が集まって、一緒に飲み食いをして先祖を喜ばせる、シーミーという習慣が残っています。

東南アジアでは、死体はもはやモノでしかありません。興味本位でそれを見たり、あるいは死を身近に感じるために死体を眺める修行もあるそうです。ミイラの博物館に展示されている庶民のミイラは、死後に見世物になることによって葬儀の費用を稼いでいるのだそうです。ある期間をすぎると埋葬されるのでしょう。また、タイには死体写真専門の雑誌があったと思います。こちらは完全に好事家向けなアイテムですね。

死後の世界には財産は持っていけないし、死んだ後も名を残すなんて儚い望みでしかありません。どんな偉人の墓でも、いつかは風化してなくなってしまいます。死後100年も経てば、名前と偉業が残るかすら、おぼつかないでしょう。やはり、現世をいかに良く生きるかという課題を、もっと真剣に考えないといけないでしょうね。

『ウェストミンスター寺院』には、静寂がもたらす張り詰めた空気と、それに比較するように圧倒的なパイプオルガンの響きがもたらす効果が記述されます。コンサートホールのように音響を計算したドームの中、荘厳な雰囲気と音の洪水が相互に絡み合い、魂を天空にまで持ち上げるようだ、と描写されています。そのような体験ができるなら、陰鬱な死者の宮殿であっても、寺院を訪れるのは悪くないのではないかと思います。


いつも読んでいただいてありがとうございます。クリックしていただければ励みになります。いつも皆さまがリラックスしていられるように。

コメント

タイトルとURLをコピーしました