絶望は淵ではなく、砂浜の波のようなもの

メンタル

辞書によると、絶望の淵という表現はありますが、それはすでに絶望の中に突き落とされた後の表現のようです。絶望のすぐ側にいるときであれば、「崖っぷち」であり、「淵」ではなく「縁」であるとのこと。

いずれにせよ、絶望というのは水に例えられます。暗くて深い、そして身体に絡みついてきてなかなか浮き上がれないようなイメージでしょう。苦しくてもがいているうちに、上下まで分からなくなってしまうような感じです。いやですねー、絶望。

絶望が忍び寄ってくるイメージ

絶望というものを粘着性の高い液体のようなものとして表現することは、なんとなく理解ができます。絶望にすでに頭までどっぷりと浸かっている場合はもう仕方がないとして、近くに絶望がいるな、と感じるときには、それをなんとか躱す手段を考える必要があるでしょう。

絶望の淵の縁に立たされているとき、底の方を覗き込んでしまうと絶望という水のなかに引き込まれそうです。絶望のほうから手が伸びてきて、身体を掴まれてを引きずり込まれるような恐ろしさがあります。心霊写真で、水死する前に笑顔で撮った写真には、水の中から半透明の手が何本も伸びているのが写っていた、というお約束のシチュエーションを連想してしまうのです。

しかし、実際の絶望の感触は、淵というよりも、どちらかというと海水浴の砂浜などで感じる、波の引き込みに似ているような気がしませんか?足を水際につけて遊んでいると、結構な力で、波にもっていかれそうになります。浅いと思って油断しているうちに、なにかの拍子で波にさらわれて、沖へ沖へと流されていく。そんな感じが、絶望と重なって感じられます。

引き込まれると戻るのに時間がかかる

すでに絶望に飲み込まれてしまったら、元の状態に戻るまで、結構な時間と気力を要します。気力は生まれたところから根こそぎ持っていかれるので、自転車操業のようなもので、ちょっと気力ができたら使う、ちょっと気力が生まれたら持っていかれるという、絶え間ない煉獄のようなサイクルに入ってしまいます。

要するに、絶望に襲われそうになったら逃げることを考えなければ、コスパが悪いということです。なにかしら希望を持って立ち向かわなければ、あっという間に絶望は忍び寄ってきます。芥川龍之介の残した「将来に対するぼんやりとした不安」という、奇妙でありながら確実に生気を奪っていくような相手からは、なんとかして逃げなければなりません。

絶望しないように、生活のリズムを保ったり、なにかしら好きなものに触れることは大事なことです。自分自身の好きなことをできるよう、時間を確保することは、絶望から身を守るための防御壁となってくれるでしょう。

どのように心を守るか

それでも、絶望というのは唐突にやって来たりするので、たちが悪いのです。自分自身に原因がなくても絶望に奇襲されることはあります。例えば、愛する家族やペットを突然失ったり、見ず知らずの人から何の理由もなく傷つけられたりするということだって、考えられるわけです。

事故に遭うのは仕方がないことです。そこからどうやって素早くリカバリーするかを考えなくてはなりません。落ち込んでいると絶望というものが襲ってきます。それに身を任せてしまうと、じわじわと気力を奪われ、抜け出すことが難しくなります。可能であれば「絶望しそうだな」という客観視ができることが理想です。それが近づいてきたら、何らかの方法で切り抜ける。そういう訓練をしておくことです。

もう絶望の淵の中にいるならば、誰かに助けを求めることです。どうせ無駄かもしれない、とは思わずに家族、友人、知人、もしくは「いのちの電話」でもなんでもいいので、正直に話すことです。たとえ相手が理解してくれなくとも、話すことで、少しは自分が冷静になれます。そして、次になにをするべきか、考える余裕がもたらされるでしょう。そうなれば、カウンセリングや心療内科に行くなどの選択肢が見えてくるのです。


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