絶望から注意を逸らすことで、生きる力を保っていく

メンタル

新型コロナウィルスの影響で、収入が大幅に減ったり、職を離れたりした人も多くいると思います。日本は、多少は他の国よりは良いのかもしれませんが、それでも不安は常につきまといました

管理人が所属する組織でも、希望退職者を募り会社を守る方針になりました。それは仕方がないとはいえ、やはり現実は厳しいとは思います。そんな憂鬱な6月の夕方に考えたことを書いていきます。

帰り道の憂鬱

健康のためを考えて、朝と夜、だいたい2キロくらいを歩いて出勤しています。朝は、どちらかというとやる気を出すための運動です。これからの季節蒸し暑くて汗だくになるのですが、それでも乗り物などで涼しく短時間で行くよりは、歩いて筋肉を動かして、一日の活力を見出すほうがいいのかなと考えています。

問題なのは、どちらかというと夜の帰り道のほうです。日が落ちていれば多少、涼しいのでいいのですが、その日にあったことを整理しながら、心を鎮めるために歩いています。今日は、希望退職に応募した知人から、退職の挨拶をいただきました。寂しさや不安感、取り残されたという気持ちなどで心が沈んでいる帰り道だったのです。

外灯が少なく、人通りのない公園の横の道を、うつ症状になりながら歩いていたのですが、その外灯のところになにやらひらひらと黒いものが飛んでいることに気が付きました。コウモリでした。コウモリ自体、自分が住んでいる辺りでもよく見かけるので珍しくはないのですが、そのひらひらと風に舞うような姿に目を奪われ、いつの間にか憂鬱から抜け出していました

少しのことで希望にも絶望にも転ぶ

このことで思ったことは「気分次第で希望にも絶望にも転ぶ」ということでした。それまでは、将来の不安、知人のこれからの生活のこと、自分の身にも降りかかるかもしれない不況の影響などを考えて怯えており、絶望の縁にいたのですが、たかがコウモリを見つけただけで、その不安をころっと忘れ、ノーマルな気分に戻れたのです。

一度気分が良くなると、いろいろと希望が湧いてきます。生きているうちには必ず幸と不幸が来る。止まない雨はないのだから、いつか好転する日もある。止めていった人たちだって、不幸とは限らないし、職を失っても「なんでもやります」という気持ちで頑張っている人たちがいるのだから、自分にもそれが出来ないはずがないというように、良い考えが浮かんでくるのです。

呆れるくらい、不安定な心を持っているのだなと、改めて思います。これがうつ症状の真実なのかもしれません。言ってみれば、弱い心があり、ちょっとの刺激で自分のコントロールの外に行ってしまうのです。この心というものを、しっかりと自分の中にキープできていれば、どんなに安心な人生が送れるでしょう。

不安定な人生に大自在を得るには

ここで、禅の公案を思い出しました。不安な人生は今に始まったことではなく、生きているうちはどのような出来事に出くわすか、分かるはずがありません。そのたびに、あたふたとして心をあちこちに無くしてしまうのは、自分というものを持っていない生き方なのではないでしょうか。

良いも悪いもある。人間は生まれたときも死ぬ時も、何も持っていません。ただ、心というものをよくコントロールすることで、不安なときでも、不意打ちを食らった時でも、そして最高の幸せで有頂天に居るときでも、冷静な「自分」で居られるのです。このことが、己を知るということだとおもいます。

己の中のよくわからない心を牛に例えた図が「十牛図」と呼ばれるものです。そのストーリーとして、牛(心)を見つけ、格闘して自分のものとし、一体となり、最後にはその一体となったことさえ忘れるほど自分の中に溶け込み、この無常の世界で大自在を得るという流れになっています。

修行など一度もしていない自分は、牛を見つけに行こうともしない横着者なのでしょう。それでも、禅の言葉は支えになるときがあるのですから、このような教えを無視することができないのでしょうね。それもまた、一つの執着なのかもしれません。


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